正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜その五

 芸人やらタレントやらが色々世間を騒がせてます。私の母は昭和一桁生まれだが、芸人、役者、小説家、プロスポーツ選手については「堅気(かたぎ)の暮らしができないどうしようもない人間で、かろうじて芸ができるとか、文章がかけるとか、運動ができるとかで、それで飯を食っている。その中で、世間に認められ(芸人なら売れて)何とか世間に認めてもらえるのは、ほんの一握りだ。やくざとおんなじ」と常々言っている。上岡龍太郎という人が同じようなことを言っていたというのを読んだ。
 私も、同じように思っている。芸人はいい芸をすればいいだけ、小説家はいい小説を書けばいいだけ。法律に触れたら、法的に罰すればいいだけ。もともと堅気の暮らしはできない変な人たちなんだから、変なことをするに決まっている。なのに法的に罰するだけでなく、メディアでぼこぼこにしなきゃいけないんですかね。変な人もいてはじめて世の中。みんな清廉潔白な訳ない。私だって脛にいくつ傷があるかしれたものではない。ましてや芸人だよ。
 何だか狭量なつまらない世の中になって行きますな。
 不寛容の時代なのかな。歴史的にも、大虐殺、大弾圧は、正義や愛の言葉のもとに行われている。何か怖いな。
 岩波文庫63、64ページに大般若経からの引用がある。私が思っている範囲でその内容を書くと次のようになる。
 釈尊の教団にいた1人の僧侶が「自分は深く般若波羅密多を敬礼(きょうらい)しよう。この世の中のすべてのもの、森羅万象は生滅はしない、生まれたとか、なくなったとかはないけれども、真理へ到達する方法、真理は得ることができる(あまり使いたくない言葉だが「悟り」)はある」と考えた。釈尊はその僧侶の考えを察して、僧侶に「お前の考えは正しい。般若波羅蜜多は微妙なものであり、人間が推し測るのは難しいものだ」とおっしゃった。原文では「如是(にょぜ)如是。甚深般若波羅蜜(じんしんはんにゃはらみつ)、微妙難測(みみょうなんしき)」
 真理に到達する直観的智恵はある。しかし、それは言葉でこうだと言い切るのは難しい、いや、人間の頭では測りがたい。だから、考えるだけでなく、坐禅を通じて体得するしかない。
 この世界は微妙難測なのだということを、私自身いつも実感している。