正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜その六

 人間が生きるというのは、本当に大変なことだと思う。毎日毎日、瞬間瞬間、次々と色々なことが起こる。
それらに、般若(直観的な正しい智恵)で対応していくのが、生きるということなのだろう。
 よく仏教で平穏な境地を得るというようなことが言われるが、平穏って何だ?
 何かあっても平然としている?それって立派なことなのだろうか?苦しいときは苦しむしかない。そのことが直観的にわかることが大事なのだと思っている。苦しい状況に対応する智恵が出て来たなら、それに取り組めばいいし、今は苦しむしかないとわかれば苦しむことを受け入れるしかない。
 でも、苦しむしかないとわかれば、それは1つの「安心」ではないか。そして、諸行無常、刹那生滅(せつなしょうめつ)、瞬間瞬間変化していく。苦しむしかないと受け入れれば、この先の変化に気持ちを向けることができる。いつも安心、平穏に暮らせるなんてことはあり得ない。
 前後するが、岩波文庫62ページに、般若について種々挙げられている。その中に「六枚の般若あり、布施、浄戒、安忍、精進、静慮(じょうりょ)、般若なり。」これは六波羅蜜と言われているもの。
 ここで布施について書きたい。私は、ずっと「お布施」というのは、お寺にあげるお金、お寺の収入だと思ってきた。
 けれど、正法眼蔵を読み、坐禅じ、提唱を読んでいくと、布施というのは自分自身の態度のこと、仏教として守らなければならないことだと教えられた。布施とは、西嶋氏によれば「貪らないこと」。難しいことだけど、自分の財産や損得、欲望に必要以上に執着しないこと。可能なら人と共有し、社会全体がうまく行くようにすること。それが自然と普通にできること。声高に言うことでもないし、ことさら他人に言うことでもない。「もったいない」と思うことも布施だと思う。食品を大量に廃棄することは布施に反すると考えている。
 前に書いたサステナブルも布施とかなり重複するのではないか。必要以上に要求しなければ、持続可能性は高まるだろう。けど、セレブやらグルメやらブランド物やらにうつつをぬかしているようでは、駄目でしょうな。経済は縮小するだろうし、生活水準が下がったと思う人がたくさんいるだろう。
 結局、人間は何のために生きているのかがはっきりしなきゃ駄目なんだろう。そうすれば何が必要で何が必要ではないか、はっきりするだろう。
 その答えは坐禅であり、正法眼蔵から得られると考えている。
 以上から布施は寺に払う金のことではないと考える。寺の経営の話と仏教の話をごちゃごちゃにしてはいけないと思う。
 宗教で金儲けしようという奴は「財産をすべてお布施として差し出さないとご利益がない」などと布施を犯罪に使ったりする。
 本来の仏教の説くところは何か、よく理解する必要があると思う。