正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜その七

 何だか薄っぺらな世の中と思えてならない。「一億総活躍」って何ですかこれ。年金や健保の財源が足らないので、死ぬまで働けっていうことなんでしょうけど。国民がみんなニコニコ活躍しているなんて、私には薄気味悪い。
 働くか働かないかなんて、正直ほっといてくれと私は思う。私自身は金がなくて貧乏で、医者にもかかれないなら、そのどん底でもがき苦しんで死ねばいいだけと思っている。
 そういう境遇になるのは、日頃の心がけが悪いということなのだろう。
 それに日頃働きもせず好き勝手なことをして、困ったら世の中に助けてもらいたいなんて虫が良すぎるのではないですかね?自分の始末は自分でつけるのだと思うけどね。
 付け加えて置くけれど、働く意思、学習する意思があるのに、その機会が与えられない社会だとしたら、それは国策として間違っている。それは社会として是正しなければならないことだ。また、一所懸命生きようとする人が社会から正当に扱われないというのも社会として間違っている。
 芸人だとかホストだとかキャバ嬢だとかで金を稼いでいるのを妙に持ち上げているが、堅気の人が稼ぐお金と価値が違うと思っている。私は衣食住に近い仕事、その仕事をできるように教育する人の報酬は金額の多寡に関わらず尊いと思っている。
 何故生きているのか、何のために金が必要なのか。そこのところはどうなんだろうか。
 まあ、人それぞれ、好きに生きりゃいい。私は、何故生きているのかと問われれば「大宇宙の真理を体得したいから」しかない。そのためには、坐禅して正法眼蔵読んで瞬間瞬間生きていくしかない。世の中の連中がどう思うかなどどうでもいい。「体得したい」と書いたが、毎日坐禅し続けることが「体得している」ということで、そのことを継続することが、体得だと思っている。
 さて、岩波文庫63ページ「また一枚の般若波羅蜜而今(しきん、にこん)現成(げんじょう)せり、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)なり」而今は「にこん」としている解説本が多いようだが、岩波文庫では「しきん」とルビがふってあるので、両方書いておいた。どちらが正しいのかは専門家の人で議論してください。
 阿耨多羅三藐三菩提とは、西嶋氏によれば「最高で、均衡のとれた正しい真実」とのこと。その真実は、坐禅した瞬間に現れる、というのが「而今現成せり」。
 なので坐禅してます。なお、付け加えると、西嶋氏は鐘を鳴らすと余韻が続くのと同じように坐禅の効果は一定時間続く。だから、毎日続け、坐禅の効果が途切れないように毎日続けないと坐禅は意味がない。だから、毎日坐禅しております。