正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜その九

 私は政治家に期待している。報道を見ていると、今の政治家はろくでもない馬鹿ばかりのようだが(報道が正しければ)、選挙によって選ばれた政治家が政治をきちんとする以外にこの国をひいては世界を良くして行く方法はないではないのかな?
 国会の議論など見ていると、それがそんなに大事なことなのかな?と思うようなことに、えらく時間を使っているようには見えるけどね。私が「重要さ」を理解してないということなんでしょう。
 マスコミ、メディアは権力を監視するという機能があり、これもきちんとしてもらいたい。
 ただ、政治家もメディアも、私にはどちらも「権力者」に見える。どちらも、一庶民など社会的に葬ることなんて訳もなくできる存在だ。権力者が適切に権力を行使するというのは、歴史を見ても本当に難しい。俗な言い方をすれば、独りよがりに大体なる。それを正せるのは、普通の人びとだけだと思っている。
 国民の普通の人が普通に生活していれば、政治家やマスコミがおかしくなるはずがないと、単純に私は思っている。政治家やマスコミがおかしいのならば、それは国民がおかしいのだ。
 さて、この先、どうなって行くのか?よくよく世の中を見ている必要があると思っている。
 岩波文庫65ページに帝釈天(たいしゃくてん)(原文では天帝釈)と善現(ぜんげん)という僧侶との問答がある。
 帝釈天は仏教の守護神だそうだ。釈尊の説法を聞いて釈尊に従うことになったとのこと。よく分からんけど。
 善現は仏十大弟子の1人だそうだ。
 帝釈天が善現に「般若波羅蜜多はどのように学べば良いでしょうか(欲学甚深般若波羅蜜多、当如何学(甚深般若波羅蜜多を学せんとおもはば、まさにいかんが学すべき))」と問うたのに対し善現は「虚空を学べ(当如虚空学(まさに虚空の如く学ぶべし))」
 この問答に続けて道元禅師は「学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり」と解説されておられる。般若を学ぶ=虚空ということのようだ。
 「虚空」とは西嶋氏によると「空間」とされている。西嶋氏の提唱録に書かれていることは、坐禅しているとよく分かる(気がする)。自分が大宇宙という広大な空間の中に存在している。その空間の中で自分は生きている。この空間の中で様々なことが次から次へと発生する。それらのことに振り回されずに、瞬間瞬間行動していく。そのことを体得することが、「虚空を学す=般若を学ぶ」ということだと思っている。自分のちっぽけな頭の中で渦巻いている考えに振り回されずに、大宇宙という空間を坐禅により学べ、ということだと考えている。
 今世の中で話題になっている、注目されている、議論されていることが、意味がない、ちっぽけだとは言わない。ただ、大宇宙という視点で見たとき、本当に重大なことなのだろうか?その感覚を欠いてはいけないと思っている。