正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜その十

 今、体調は正直良くない。頭痛は3か月ほど続いているし、時々目眩もする。親も高齢で介護もしなければならない、自分の仕事もしないと収入がなくなる。いやはや、ほとほと参っている。医師によると脳には異常無いそうだ。緊張型頭痛(?)ではないかということで、ストレスを減らしましょうと言われたが、どうすりゃいいんだか分からん。ストレスってほいほいなくなるもんじゃないと思うのですが?
 ただ、「参っている」という状態が、自分そのものであって、やらなければならないことは、今の状態でやれる範囲でやる。それしかないと思っている。自分自身の状態を受け入れる。
 私は以前は大量の酒を飲んでいた。色々失敗もし、体もおかしくなってきたので、今は一滴も飲まない。飲まなくなって、「酒を飲むと本来の自分ではなくなる」と強く感じるようになった。夜酒を飲んでも、朝酒が抜けて坐禅して「本来の面目」になれるからいい、と思っていたが、間違っていたなと、しみじみ思う。本来の自分でない時間を持つこと自体、よろしくないことだったのだ。
 覚醒剤大麻、MDMAとか薬物が世間を騒がせている。法律の問題とか芸能人が出演した番組がどうだとかこうだとか、色々やっている。
 私にとっては、本来の自分でなくなることをするのは意味がない、無駄なこと、としか思わない。本来の面目で大宇宙の真理を体得することを妨げることをする意味がない。
 薬物で快感や恍惚感を得ても、それは本来の自分ではない。そういう恍惚感を神秘的なものとして、宗教的な雰囲気を持ち出す人もいるようだが、私からすれば、見当違いとしか言いようがない。
 精神や肉体を害するといくら言っても、そもそも何のために生きているのかが定まらないのなら、社会的に制裁することで済むのだろうか。立ち直ろうと努力している人は評価するけれど。
 岩波文庫68ページ「しるべし、受持読誦(じゅじどくじゅ)、如理思惟(にょりしゆい)、すなはち守護般若(しゅごはんにゃ)なり。「欲守護」は「受持読誦」等なり。」経典を読み、それをもとに考えることが智恵を守ること、智恵を守ろうとすることは経典を読むこと等である。等の中には当然坐禅が含まれる。
 智恵の状態というものは、大宇宙という空間と一体であり、その状態を守ることが唯一やるべきこと。
 それは自分の身心を正しい状態に置かねばできないこと。それは坐禅によって得られる。正しい智恵を勉強したければ、坐禅と共に、経典を読めばよい。薬物などやっている暇はない。
 ただし、経典の数は膨大であり、それを全部読むなんて不可能。西嶋氏が書いておられるように、正法眼蔵を読めばよい。それは可能なことだ。ありがたいことに。