正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その一

 今回から、正法眼蔵について私が感じたこと、経験に照らして思うことを書いていきたい。

 まずは、辦道話(べんどうわ)だが、その前にお断りしておきたいことがある。

 第一に、最初の頃にも書いたが、私は曹洞宗には一切関係ない。また、仏教を学問として勉強したことも一切ない。また、今後も曹洞宗に関係する気も、仏教を学問として勉強する気もない。従って、曹洞宗の関係者(僧侶、信者)や仏教学者の立場からみると、私の書くことは「間違っている」だろう。しかし、私の書こうとするのは、私が生きてきた、これから生きていく中で、私個人として感じたこと、思ったこと、考えたこと、であって、曹洞宗や学者の立場から間違っているかどうかは、関係ない、どうでもよい。開き直っていると思われるだろうが、上記の方々を批判する気もない。別世界のことである。

 第二に、私の思うことを書き残すことだけが目的。従って、世の中の人に理解してもらいたい、ましてや教えたいとかこうすべきだなど、世の中の人に働きかけるつもりは毛頭ない。ならば何でブログなど始めたんだと言われるだろう。それについては、坐禅して正法眼蔵を読みながら生きてきたので、そのことを書き残したいという「遺書」みたいなもの。その観点から言えば、こういう人間がいたという「社会的認知」の欲求はあるのだろうね。何だか分かりにくくてごめんなさい。

 第三に、以前、西嶋和夫氏の著作は敬遠したと書いた(西嶋氏が東京帝大卒大蔵省という超エリートで私とは別世界の人と思ったので)。事実、二年間くらいは澤木興道氏の著作を読んでいた。澤木氏は魅力あふれる方で、提唱も大変面白く、本当に氏が仏教、仏道に全身全霊を挙げて取り組まれたことが伝わってくる。感銘し、影響も受けた。しかし、澤木氏の提唱は正法眼蔵全巻について書籍化されていない。私は全巻を読み、理解したい。提唱がないと理解できない。すると、西嶋氏の提唱録しか存在しなかった(少なくとも当時は。今はどうなっているか知らない)。そこで、西嶋氏の「正法眼蔵提唱録」全巻を購入した。読み進めているうちに、西嶋氏の説くところは、宗教臭くなく極めて論理的であって、私には非常に分かりやすく、納得のいくものであった。従って、以降私が書くものは第一のところに書いたように私自信が感じたこと思ったことだが、西嶋氏の影響は出てくるかもしれない。西嶋氏の真意と異なる場合があるかもしれないが、それは私自身の落ち度であり、その責はすべて私にある。また、西嶋氏の主張が宗門、学会に認められているかどうか知らない。批判的な意見を読んだ記憶がある。西嶋氏もそのような趣旨を書いておられる。だから「西嶋氏の影響を受けたブログなど書いてけしからん」という人が出てくるかもしれない(このブログを読む人はごく少ないけど)。その点は第一、第二に書いたとおりであり、そう言われても関係ないとしか言いようがない。

 前置きが長くなり過ぎた。次回は辦道話について書きたいと思う。