正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十七

 岩波文庫162ページ「しかあればすなはち、たゞ人間を挙して仏法とし、人法を挙して仏法を局量(こくりょう)せる家門、かれこれともに仏子と許可することなかれ、これただ業報(ごっぽう)の衆生なり。いまだ身心の聞法あるにあらず、いまだ行道せる身心なし。従法生にあらず、従法滅にあらず、従法見にあらず、従法聞にあらず、従法行住坐臥にあらず。かくのごとくの儻類(とうるい)、かつて法の潤益(にんやく)なし。行仏は本覚を愛せず、始覚を愛せず、無覚にあらず、有覚にあらずといふ、すなはちこの道理なり。」

 そういうことであるからすなわち、ただ人間の世界を取り上げて仏法とするとか、人間の世界の理屈・しきたりを取り上げて仏法をごく一部に限定するような人々は、どちらも仏の弟子としてはならない。これらの人々は何らかの経緯で人間という形になっている者なのである。このような者達はいまだに心身を使って法を聞くことをしたことがないし、仏道を心身を使って行動することもない。こういう者達は、法に従って生まれるのではないし、法に従って消滅するのではない、法に従って見ることはないし、法に従って聞くこともない、法に従って日常生活の一つ一つの行動(行住坐臥)をすることもない。このような者達には法の価値を受け取ることはない。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するときには、もともと真理を持っているのだとか、真理を得ようとするところだとか、真理は無いとか有るとか、そのようなものは関係ない、どうでもよい、これが行仏(坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動)の道理なのである。

 ここのところは、私は「坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しなければいけない、それがすべてだ、そこにこそ、そこだけに価値がある。人間の貧弱な脳味噌からひねくりだしたものに惑わされてはいけない」ということだと思っている。

 坐禅しないとこの道元禅師の書かれていることは理解できない。道元禅師は大宇宙の真理を説いておられる。

 学問は尊いと思う。しかし、それは大宇宙のごく一部に過ぎない。にもかかわらず、勘違いして威張ってしまう学者は多いように見えますね。ちょっと何か知ってると偉いと思っちゃう人もたくさんいる。

 コロナにしても、オリンピックにしても、小さな立場、小さな見方に過ぎないのに大仰に騒いでる人が多いように思う。政府も、与野党の政治家も、メディアも視野が狭すぎると思えてならない。

 坐禅して大宇宙を体感して欲しいなあと思う