正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その三

 岩波文庫53ページ。「万法ともにわれにあらざる時節」ここは西嶋氏のいう「集諦」の立場。集諦は客観的、唯物論的立場だそうだ。

 事実関係を客観的にみるというのは重要だと身に染みている。一方で客観的に事実関係を把握することの難しさも身に染みている。本人が「客観的だ」と主張しても往々にしてその人の主観が多く入り込んでいて「客観的」とはとても言えないケースが多い。数値データでも主観的に読もうと思えば読めないことはない。「データに基づいている!」と言って怪しげなことをする人間も一杯いる。厄介ですな。

 ちょっと、「客観的」で脱線してしまった。客観的になることが難しい話をするのが目的ではないのだった。ごめんなさい。

 「万法ともにわれにあらざる時節」とは、万法は諸法と同じで、世界に存在するあらゆるもの、森羅万象のこと。「われにあらざる時節」とは、主観から離れて客観的に見たとき、と私は思っている。このときには「生なく滅なし」である。人間の体を構成している物質は生きているときも死んだときも変わらない。形態が変わるだけだ。質量保存の法則。久し振りに質量保存の法則なんて言葉を使ったなぁ、と感慨に耽っております。

 このように物質的に純粋に客観的な立場に立てば、迷うとか真理を掴むとか、真理を体得した人とか普通の人とかなんて区別はない。

 私も中学三年生頃かな、「どうせ世の中なんて」と世の中を突き放して、わかった風に斜に構えていたときがあった。理想的なもっともらしい、格好いいことを言う人間を馬鹿じゃないかと思っていた。(今も基本的にはそれに近いけど)だから卒業式とか入学式とか大嫌いだった(今でも大嫌い)。卒業生を送る言葉で「先輩方の温かいご指導」なんて聞くと、「嘘つけ!」と叫びそうになった。上級生からはいじめられたとかろくな思い出しかない。「助け合って励まし合って共に学んだ」なんて、そんな記憶は少なくとも私にはまったくない。まあ、社会で生きるというのは、そういう儀式をもっともらしい顔してできなきゃいけないということなのかも知れないけど。

 また、脱線してしまった。ここでは、客観的、唯物論的な立場では、生きるとか死ぬとかはない、と考えることができる、ということが書かれているということである。