正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十八

 岩波文庫79ページ「「時節若至」といふは、「すでに時節至れり、何の疑著(ぎじゃ)すべきところかあらん」となり。疑著時節さもあらばあらばあれ、還我仏性来(げんがぶっしょうらい)なり」
 「時節がもし至れば」と言っているけれども、時節は今のこの瞬間であるから既に「至れり」。何を疑うところがあろうか。もし疑うということがあるならあったでよいが、仏性は自分自身にある、還ってきているのだ。
 よく道元禅師は厳しいと言われることがあるけれど、私はそうは思わない。当然「真の仏教」という点では妥協されることはあり得ないが、今回のところなど、まさに「救われる」思いがする(あまり宗教的な用語は使いたくないが)。
 つまり仏性は今この瞬間に存在する、自分自身が仏性であるとおっしゃっているのだから。
 もちろん、坐禅は必要だし、正法眼蔵を読むことも必要だけど、坐禅をした瞬間に仏なのだ、なぜなら自分自身=仏性なのだから。仏性が坐禅によって現れると考えてもいいのかもしれないと思う。
 もちろん「私は仏でーす」と言っているだけじゃ、ただのお馬鹿さん。肝心なのは、この現実の世界でどう具体的に行動するか、ということ。
 現実の世界の地べたを這いずり回って、現実、事実を必死に確認する、それを毎日積み重ねる。坐禅を毎日しながらね。
 世の中が成り立つのは、人々の現実の行動。一人一人の毎日の生活がどのように過ごされているかで世の中のあり方が決まる。名も無き普通の人々が世の中を決める。
 耳障りの良い能書きは、もういい加減にして、現実ときちんと向き合って、地道な行動を大事にしましょう。
 口ではいっぱしのことを言うが、何かやらせるとからきし駄目という人、多くないですか?