正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その四 

 「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり」
 ここの「豊倹より跳出せるゆゑに」が難しい。西嶋氏は、ここは滅諦の立場とされている。つまり、行動の世界。西嶋氏は「行動の立場というのは一所懸命の世界、無我夢中の世界」なので、豊だとか乏しいとか頭で考えて分け隔てしている余裕はない世界、立場だとしている。
 つまり、現実に生きて行動していれば、生きている、死んでいる、迷っている人、真理を体得した人、普通の人、これらに向き合わざるを得ない。要は現実を瞬間瞬間処理していかねばならない。頭の中で、主観だ客観だとこね繰り回している暇はない。勿論、処理するためには主観(理想像)も必要だし、客観(事実関係の正確な把握)も必要だ。しかし、それは日々の行動の中で活かさなければ意味がない。
 坐禅してきて、どう行動すればよいかは、その瞬間に決まるものだと思うようになった。頭の中であれこれ思い悩んでいても、決めるのは瞬間だ。
 行動は現実の中で行われる。主観、客観は頭の中のこと。日常生活の積み重ねが人生そのもので、日々どう生きるか、どう行動するか、日々の心がけがすべてだと思う。
 偉そうに能書をたれたり、表面上取り繕っても、日々の生活がだらしない、下らないものであれば、結果は現実のものとして明白に現れる。マスコミ報道など見てもそれは明らかだ。私の身の回りにもいくらもある。
 会社などの経営も同じだ。日々の経営活動の積み重ねが業績という結果として現れる。だから経営トップの判断、決定は重要だ。それに基づいて日々の経営活動が行われるから。もし判断を誤ったとしても、途中で改められればいい、トップに進言する人がいてそれを受け入れられるのならいい。けどねえ、「俺様は間違えない」とか「俺様に生意気なことを言うな」とか言う人の方が多いんではないのかな?
 某自動車会社の報道を見ていると、あそこの経営陣はみんな、自分の行動がおかしいと思わない人達だったのね、と見える。報道が正しいのならばね。
 ここで問題になるのは、行動が瞬間に決まるのなら、その瞬間に正しい行動が出来なければならないということ。そのためにはどうするか。
 それが道諦につながる。