正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百

 岩波文庫101ページ「一切(いっさい)の功徳(くどく)、この功徳なり。仏功徳はこの身現の究尽(きゅうじん)し、嚢括(のうかつ)するなり。一切無量無辺の功徳の往来は、この身現の一造次なり」
 一切の仏というものの本質(功徳)は、この姿を現すということである。仏の本質はこの現実に姿を現すということをよくよく考えるということであり、全てを包み込んでいるのだ。すべての限りない仏の本質は、この世界で動き回っているけれど、それは現実の姿を瞬間瞬間現しているということである。
 この世界というのは、一人一人が現在の瞬間をどう行動するか、生きるかで決まる、ということだと思っている。
 こうすりゃいいと単純には言えない。究極的には大宇宙の真理に従うしかないけど、世の中には色んな人がいる。コロナ対策だって国によって色々だ。おそらく、一定のものに収束していくだろうけど。国によって、事情も色々だろうしね。その国の状況について具体的な事実を確認しないで日本と比較しても、あまり意味がないと思うけど。情報として事実に基づいて評価してもらいたい。日本と基礎的条件が違うなら、すぐにはどうにもできないでしょう。将来に備えるということなら意味はあるけど。
 坐禅が普及しないかぎり、大宇宙の真理に従う世界は実現しない。そういう時代は来ないのかもしれない。少なくとも私が生きている間はない。でも最後の最後、真理にしか到達しないと信ずる。
 なお、功徳を西嶋氏は「仏の性質」とされている。私はそれに従っている。「こうすれば功徳がある。ご利益がある」というのは、嫌いだし、性質として読めば分かりやすい。大体、功徳があるから信じるなんて、さもしいと思う。