正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八十八

 岩波文庫97ページ「これ説法蘊(せっぽううん)なり、それ「無其形(むごぎょう)なり。」無其形さらに「無相三昧(むそうざんまい)」なるとき、「身現」なり。一衆(いっしゅ)いま円月相を望見(もうけん)すといへども、「目処未見(もくしょみけん)」なるは、説法蘊の転機なり、「現自在身」の「非声色(ひしょうしき)」なり」
 (姿を現すということが)説法そのもの、説法の集まりである。説法には決まった形があるわけではなく、色々に変化する(無其形)。その無其形が坐禅(無相三昧)の形となったとき、真の姿(大宇宙の真理と一体となった姿)を現すということになる。そこにいた人々みんなが龍樹尊者の姿を見たけれども「目で見たことがない」ということになるのは、龍樹尊者の坐禅の姿が説法の集まりになった(そこにいた人たちが説法に集中していた)ということで、その時に現した姿は、見る(視覚)など感覚の対象ではない(一体となっているから感覚で捉えるというようなことではない)。
 私は、ここでは2つのことを感じる。1つは、行動(坐禅)が真実を説いていること(説法)だということ。もう1つは、大宇宙の真理は感覚の対象ではないということ。
 百万言を費やしても、実際にやっていること(行動)が間違っていれば、何の説得力もない。黙っていても正しい行動は人の心を打つ。スポーツが感動を与えるとしたら、それは言葉ではなく、行動そのものだからだろう。コロナについても、毎日黙々と必死に対応している人たちがいる。それは尊い。評論家だか何だか知らないが、つべこべ言葉だけ発していても、見世物にすぎないと思っている。まあ、今の世の中、耳障りのよいもっともらしいことを言うことを評価するようだから仕方ないんだろうけど。それにテレビは視聴率が一番大事だからね。喋り散らす人の方が重宝なんだろう。
 大宇宙の真理は感覚、言葉では言い表されないもので、坐禅によって体得、一体となるしかない。瞬間瞬間現実は変化するのだから「無其形」であり、その変化と一体になり、大宇宙の真理に従って行動するためには坐禅しかない。
 私には、今回のコロナでの、国民への保障が十万円がいいのか、三十万円がいいのか、判断しかねる。どちらにしても、一長一短だろうと思う。実際に誰にどのようにできるだけ早く渡せるのか、実務的には大変だと思う。それに、コロナ終息後のことも考えているだろうし、一筋縄ではいかないだろう。
 政治家は支持母体の意見には逆らえないし、また、実務を仕切っている官僚も無視できないだろう。
 こう言ってはなんだけれど、政治に期待する前に自分自身でどうするかを考えた方がよさそうだ。大体、過去においても、政治が素晴らしいことをしてくれたことなどなかったのではないか。今後も、少しはましな政治を期待するのが、健全な態度だと思う。だから、選挙があると思っている。
 一人一人が普通のことを普通に行動して、少しはましな政治が行われる世の中を作っていくしかないと思っている。
 一人一人がおかしなことをしているのに、政治はまとも、なんてことはあり得ないのだから。