正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八十七

 岩波文庫「いはんや「用辯(ようべん)も「声色(しょうしき)」にあらず、「身現(しんげん)」も色心(しきしん)にあらず、蘊処界(うんじょかい)にあらず。蘊処界に一似(いちじ)なりといへども「以表」なり、「諸仏体」なり」
 現実の色々な動きも、感覚や物質でとらえられるものではないし、肉体にしても物質や感覚ではないし、たくさんの物質の集合体でもない。たくさんの物質の集合体に似ているところはあるけれども、現実に姿を現しているというその事実が全てであり、そのことはたくさんの真理を体得した人たちと同じ姿であるということである。
 私なりの理解では、色々理屈は言えるけれど現実そのものが全てだ、ということなんだろうと思う。
 コロナを巡っても、まあ色んな人たちが色んなことを言っている。正直言って、うるさい。事実だけ知らせてくれればいい。「事実」自体が誰にも分かってないのかもしれないけど。
 国とか自治体とかには、しっかりしてもらいたいとは思うけど、あんまり期待しすぎても無駄とは感じる(過去において完璧なんてことはなかったし、そもそも誰にとっても完璧なんてあり得ないし)。
 私は私なりにできる限りのことをするしかない。少なくとも、他人に感染させるリスクがあることはしないように行動する。
 今のところ、ワクチンによって抗体を作ることもできないし、治療薬もない。だから、感染者の急激な増加、発症者の急激な増加を防ぐしかないのだと思っている。感染したけど、抗体ができて発症しない人が増えているのかもしれないけど、それは現在調べられないし、調べる余裕もないんだろう。だから、取り敢えずは人との接触を減らすしかないんだと思う。とすれば、医療とかが対応できる範囲に抑えているだけのことで、根本的にコロナを終息させるまでの時間稼ぎなんだろう。
 何とか上手くいって欲しい。
 誤解されるかもしれないけれど、そうしていても死ぬときは死ぬしかない。
 だから、毎日坐禅して、正法眼蔵読んで、このブログを遺書のつもりで書いている。
 坐禅している限り、仏なのだから、それ以上何も望むことはない。