正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八十四

 岩波文庫97ページ「この身、円月相現(えんがっそうげん)なり。身現は方円(ほうえん)にあらず、有無(うむ)にあらず、隠顕(おんけん)にあらず、八万四千蘊(うん)にあらず、たゞ身現なり」
 この我々の身体は、坐禅している身体は、何も欠けたところのない完全な姿、円月相として現れている。この姿は、頭の中で、四角いとか円いとか観念的にとらえるものではない、同じく、有るとか無いとか、隠れているとか顕れているとか、無数のものが集まっているだとか、観念的、抽象的なものではない。ただ、現実の身体が現れているだけである。
 学問も重要、情報も重要、しかし、現実に今この瞬間に存在していることをしっかりつかむことができなければ、どうしようもない。
 たくさん色んなことを知っている、弁も立つ、だけど、現実に処理できない、そういう人たちを随分たくさん見てきた。また、こういう人たちは、責任転嫁がとても上手で、上手く生き延びて、偉くなっちゃったりする。
 けど、これは間違った生き方だ。間違った生き方は、因果の法則により必ずそれに見合った状態が訪れる。
 私は、そういう人たちがどういう結果となるかには興味はない。私は、間違った生き方をしたくないだけだ。そして、周囲の人たちが間違った方向に行かないよう努力はしたいと思う。
 私自身がどう生きればいいか、周囲のためにどう努力したらよいか、は坐禅が教えてくれる。