正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八十一

 岩波文庫96ページ「しばらく尊者の道著(どうじゃ)する偈(げ)を聞取(もんしゅ)すべし、いはゆる「身現円月相(しんげんえんがっそう)、以表諸仏体(いひょうしょぶったい)」なり。すでに「諸仏体」を「以表」しきたれる「身現」なるがゆゑに「円月相」なり。しかあれば、一切の長短方円、この身現に学習すべし」
 龍樹尊者がおっしゃられた偈を聞いてみるべきである。龍樹尊者が坐禅された姿、その身体が満月のように欠けたところのない完全な姿を現し、そのことをもって、たくさんの仏(大宇宙の真理を体得した、真理を得た人たち)の姿を示したのだ。たくさんの仏を現した身体であるから、欠けたところのない完全な姿なのだ。であるから、この世の中には、長いもの、短いもの、四角いもの、円いものがあるが、それらはすべて欠けたところのない完全な姿、ありのままの姿であると学ばねばならない。
 ここは、この後にも道元禅師が解説をされているけれど、龍樹尊者の坐禅の姿が特別な、いわゆる「神々しい」ものだと言っているのではない。坐禅は本来の面目、本来の心身に立ち返ること、つまり、本来のありのままの姿になることなのだ。そうしてみれば、この世の中の一切の存在はありのままの真実として受け止めるしかないのだ。
 ありのままというと、現状肯定で消極的というように考える人もいるかもしれないが、現実がどうなっているか、今この瞬間のありのままの姿がわからなくて、何が出来ると言うのだろうか?
 コロナを巡っても、政治家の間では、色々な思惑、権力闘争が行われているのだろう。このことを、怪しからん!と言ってみたところで、変わることはないだろう。ただ、闘ってもいいけど、現実を見失わないことだけは祈りたい。大丈夫かな?
 私も坐禅することで、現実をありのままにきちんと見据えて、自分自身がやれるだけのことをやろうと思っている。頭の中に思い浮かぶ想念と現実とがごちゃ混ぜになったら、危ないことになる。これは間違いないことだ。