正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八十三

 岩波文庫96、97ページ「いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり」
 どんな状況でもどんな時でも、自分自身の体以外現すことがあろうか(自分自身の体を現すだけ)。まさに知らなければならないことは、龍樹尊者は、ご自分の席で坐禅されていただけのことだということだ。龍樹尊者がその姿を現したというのは、我々誰もが坐禅しているのと同じ姿であったのだ。
 龍樹尊者が姿を現した(身現)ことを円月相と表現したりしているけれど、我々と何ら変わることはない、同じである、ということ。
 よく教祖だとか言って、特殊な能力を持っているとか、神格化したりしているけれど、少なくとも、そのような教えは、仏教ではない。
 仏教は、普通の人たちが普通に行動することを教え、示しているものだ。ここの部分で、そのことがはっきりする。
 私のイメージでは、人間(人間に限らずすべての存在)は、大宇宙の一部を皮膚で包んだもの、という感じ。だから、大宇宙と人間は同一のもの。従って、本来、人間は大宇宙の真理に従って、普通に行動できるはずなんだ。だけど、自分の利得、欲望、見栄、習慣だとかで、本来の自分自身を見失ってしまう。
 それを坐禅によって、余計なものを振り落として、本来の姿に戻る。戻れる。これに尽きるというか、他に何もない、と思っている。