正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八十五

 岩波文庫97ページ「円月相といふ、這裏是甚所在、説細説麤月(しゃりししもしょざい、せっさいせつそげつ。這裏是れなにの所在ぞ、細と説き、麤と説く月)なり。この身現は先須除我慢(せんしゅじよがまん)なるがゆゑに、龍樹にあらず、諸仏体なり」
 円月相、円い月の姿と言っているけれど、これは、この場所(我々が生きているこの場所)は何がある場所であるか?言葉では言い表されない何かがある場所であると言っているのであり、月にしても細かったり、大きかったり様々であって「これが月の形だ」と決めつけられない中で、円月相という表現をしているだけだ。この坐禅の姿は、自分自身の利得とか評価とか見栄等を除いた姿であるから、龍樹尊者のことを言っているのではなく、真理を体得した、一体取った人たちのことを言っているのである。
 現実の世界は言葉では言い表せないものだ。その中で瞬間瞬間生きていくためには、坐禅して本来の面目にならなければいけない。
 「先須除我慢」この言葉は大事だと思う。今の世の中「我慢(自分の利得、評価、見栄、欲望等々)」を露にしている人がとても多いと感じる。それが良いこととすら言っている人もいると感じる。個人が希望や夢を描くことは悪いことではない。ただ、それをぎやーぎゃーしゃべらなくてもいいと思うし、希望や夢に振り回されて現実を見失ってはどうしようもない。
 もっと嫌だなと思うのは、日常の一つ一つの行動で、除我慢できない人たちですかね。歩きスマホするな、と言われてもやめないひとは多いし、歩きタバコ、吸殻のポイ捨て、ゴミの収集ルールを守らない等々平気でやれてしまう人たち。自分のやっていることが、勝手なこと、自分にとって都合のよいことが周囲に迷惑をかけていることがわからない。
 コロナにしたって、パチンコしたいといって休業規制してない県に行ってしまうとか、湘南海岸に人が一杯訪れたとか、今、移動することが社会にとってリスクなのに、自分のやりたいことが優先してしまう。
 普通のことが普通にできない。
 坐禅していれば、普通のことしかできなくなるけどね。
 上に書いたような人たちに、理屈を言っても無駄。理屈なんてなんとでも言えるからね。
 かと言って、法律とか、行政の規制で縛るというのは幼稚な世界だと思う。以前も書いたけど、規制を強めるのがよい解決法とは思えない。
 坐禅して普通になって下さいな。