正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その八

  岩波文庫17ページ「静中(じょうちゅう)の無造作にして直証(じきしょう)なる」ただ静かに坐禅していることで直接分かる、体験できるという意味と思っている。

前回、私の思う「悟り」について書いてみたが、ここを読むと私は私の思うところでいいのだと思える。つまり、坐禅した先に、結果として悟りがあるのではないのだ。

 ちょっと文脈から飛躍するが、大宇宙の真理を体感すること(体得までいうと私にはおこがましく感じてしまうが、体得でもいいかもしれない)が坐禅だと思う。澤木氏は「宇宙とぶっ続きになる」「宇宙と波長が合う」という表現をされている。迫力のある表現だと思う。私のようなものでも坐禅していると、ひろーい宇宙の、広大な宇宙の中に、一人自分が坐っている、と感じることがある。

 そう感じると、世の中で起こっていることが、感情を交えず、客観的事実、大宇宙の中の一つの事実として見えてくる気がしている。報道や、他人が言うほど世の中は単純ではないし、また、偏った見方なのに事実のように言う人が滑稽に見える。

 坐禅をした状態で、世の中を大宇宙の観点から見ることが、生きていく上で不可欠というか、それしかないと思っている。

 ただし、私は、七転八倒して生きている。世の中のことは御見通しなんてことは全然ない。でも、それもまた、大宇宙の中の一つの事実なのだから、それでいいと思っている。