正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十三

 岩波文庫110ページ「たとひ説得(せって)せば説著(せつじゃ)を罣礙(けいげ)せん。説著あらば、聞著と同参なるべし」
 仏性について説明できるのなら、説きあらわしたことが現実の世界の中に真実として存在するだろう。説くことができるのなら、真実を聞くことと同じである。
 「説得せば説著を罣礙せん」のところは、勝手な解釈を書いている。罣礙というのは、絡めとる、具体的なものとして捉える、ということだと考えている。
 仏教・仏道は具体的な現実を問題とするのだから、仏性を説明するとしても、観念的な言葉のレベルでは駄目。
 結局のところ、坐禅することがすべてとなると思っている。けど、人間は言葉を使うのだから、言葉で様々に議論することも必要だ。しかし、本質・大宇宙の真理とは何かを脇に置いて議論ばかりしていると、おかしくなってしまうと思う。
 結局のところ間違ったことは間違った結果にしかならない。この間も書いたけど、芸人が不倫して騒ぎになっている。正直、芸人が何をしようとどうでもいいし、そんなことを追いかけ回すマスコミもなんだかなあ、と思う。それはそれとして、人に知られようと知られまいと、間違ったことをすれば間違った結果にしかならない。あの芸人もたとえ隠し透せたとしても人間としては間違った結果しか待っていない。
 人生にしても、人類の将来も日常生活の瞬間瞬間の行動の積み重ねがすべてを決める。
 今のままで人類は大丈夫なのかな?
 坐禅しませんかねえ。