正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十八

 岩波文庫147ページ「「心(しん)」牆壁(しょうへき)あり、いまだ泥水(でいすい)せず、いまだ造作(ぞうさ)せず」

 「心」というのは目の前の現実、例えば土でできた壁であり、壁を作るために泥を水でこねることもないし、そもそも何かを作ろうなどとはしないのである。

 「心」などというと、ものすごく精神的なことのように考えるが、そうではなく、現実そのものなのだ。

 ここまでで道元禅師は「即」「心」「是」「仏」を個別に解説され、この後「即心是仏」を色々な角度から解説される。

 言ってみれば、個別の要素に分解し、さらにそれを総合する。現実は単純ではない。その現実をいかに理解(観念ではなく、具体的に)するか。それが重要だ。そしてその理解は瞬間的に直感で分からなければいけない。大宇宙の真理を体で受け止められなければいけない。それは坐禅すればできる。難行苦行はいらない。

 政治家、メディアを筆頭に今の世の中、ちっぽけな断片を取り上げてあーでもないこーでもない、自分は正しい、あいつは怪しからんと言っているように見えて仕方がない。

 このままでは、とんでもない方向に行ってしまわないだろうか。坐禅しないと駄目なんだけどなあ。