正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十九

 岩波文庫147ページ「あるいは「即心是仏」を参究し、「心即仏是」を参究し、「仏即是心」を参究し、「即心仏是」を参究し、「是仏心即」を参究す」
 即心是仏を学ぶということは、心即仏是心=仏を学ぶことであり、仏即是心、仏とは心であると学ぶことであり、是仏心即、仏と心は同じであることを学ぶことである。
 道元禅師は時々このように、言葉の順序を入れ替えて解説をされる。ここのところは、私は心も仏も現実そのもの、大宇宙の真理なのだということをお書きになっているのだと思っている。
 総務省が接待を受けたとか騒いでいる。政治家も絡んでいると騒いでいる。
 なんて言えば良いのかよくわからないけど、「やっちゃいかん」というなら、やっちゃいかんのでしょうね。
 しかし、これが日本人いや人類の現在のレベルなんだろうと思う。ルールを厳しくしたり、ぎゃあぎやあ難詰しても、本質的には何も変わらないだろうと思う。どうも私は「正義」を振り回す人は好きではない。一番簡単な方法を得意気に人前でやれるという神経がわからない。
 人類のレベルを上げるしかない。それは坐禅によってのみ実現される。