正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その十

 岩波文庫74ページ「無始有(むしう)の有にあらず、是什麼仏恁麼来(ししもぶついんもらい)のゆゑに。始起有(しきう)の有にあらず、吾常心是道(ごじょうしんぜどう)のゆゑに」
 ここも前半は言葉、頭の中の観念論で、それを坐禅の境地、大宇宙の真理から解説されておられる。
 始まりなどなく存在しているという言葉を使っても何もならない。すべての存在は言葉では言い表せないなにものかが言葉では言い表せないけれどここにあるのだ。
 坐禅していると、大宇宙の中にぽつねんと自分という小さな存在が坐っている、と感じることがある。宇宙というのは何故存在し、自分というのは何故ここにいるのか。自分の体の中では心臓が動き血液が流れ、その他の肉体も自然と活動している。頭の中で考えてそうなっているのではない。まさに是什麼物恁麼来だと感じる。
 今存在が始まったということではない。自分のいつも通りの心の状態が真実だから。始まるとか始まらないとか、関係ない。自分がどうあるかが問題なのだ。存在というのは普段の心がけの問題だと私は思っている。心がけ、身心の状態で自分自身も世界もありようが決まる。
 自分は正しい正しいと妄想(私には妄想としか思えない)、自分の利益を確保したい増やしたい、そんなことに振り回されることではいけない。存在とは言葉では言い表せないが、絶対の存在であり、その存在は普段の身心のありようによるのだ。
 政治家が賄賂を貰ったかどうかとか政治資金規正法に抵触するとかしないとか、便宜は図ってないとかとかなんとか騒いでいるけど、普段の心がけが悪いんでしょう。まあ、金と権力の世界は魑魅魍魎の世界で血みどろの世界。批判するのは簡単だが、いろんな側面を持っているので単純な批判ばかりしても、本当のところはどうなのか中々みえないとは思う。ただ、こういうことに巻き込まれてしまうのは、普段の心がけが悪いということは間違いないと思う。
 仏教は神の世界などの観念論ではない。この世の実在をどう捉え、どのように生きるかの教えだと私は思っている。
 天国に行くとか、極楽浄土に生まれるとか、そう信じられる人はそれでいい。それは自由だし、信仰は信じることだから、それで救われるのなら、その人にとって幸福なこと。私がつべこべ言うことではない。
 ただ、私はそのようには思えない。今の瞬間をどう生きたら良いかしかないと考えている。どう生きるかは坐禅が決めてくれる。「そうじゃない!」という人もいるだろうけど、上に書いた理屈のとおりだから、私の自由にさせてね。お願いします。