正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九

 岩波文庫74ページ「本有(ほんぬ)の有にあらず、亘古亘今(かんこかんこん)のゆゑに。始起(しき)の有にあらず、不受一塵(ふじゅいちじん)のゆゑに。条々の有にあらず、合取(がっしゅ)のゆゑに」
 道元禅師は、頭の中で考えた言葉、観念、概念を否定し、坐禅の境地、坐禅をした身心から説明をされている。西嶋氏はそのように述べられているし、私もそう思う。
 「本有」元々あるという概念ではなく、過去から現在に亘って存在しているというのが実情だ。大宇宙の真理は絶対的に存在していて、時代によって変化するものではない。人間の頭の中で考え出されたものが時代時代によってあれこれ変わっているだけ。その時代に流行した思想と言ってもいいだろうと思う。その時流行っている思想に乗っかって「元々正しいのはこれだ!」などと調子に乗って浮かれてはいけない。真理はそんな薄っぺらなものであるはずがない。
 「始起」今生まれた、今発生して存在しているというようなものではない。大宇宙の真理は、何かが付け加わるとか、何かが欠けるとかいうものではない。絶対の真理として存在しているのだ。
 「条々の有」一つ一つが独立して存在しているのではない。すべての存在は全体として大宇宙の真理として存在している。
 当たり前と言えば当たり前のこと。しかし、世の中で起こっていることを見ていると、当たり前のことをすることが如何に難しいことか、と思う。仏教は「当たり前のことを当たり前にできるようになりましょう」ということだと思っている。超能力とか神通力とか超人になることなど全く目指していない。「普通の人」になることを目指していると私は思っている。だから、普通のことを言い、普通のことをしているのだから、世の中でスポットライトを浴びるような、派手な目立つものではない。
 今の世の中、目立つこと、注目を集めることを良しとしているように見える。承認欲求とかいうものなのかな?そうしたいという人に「やめろ」とは言わないが、仏教とは関係ないこと。
 普通のことを言ったりやったりしたら、世間が騒ぐのなら、世間が変なんだと思うけど。