正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八

 岩波文庫74ページ「妄縁起の有にあらず、徧界不曾蔵(へんかいふすんぞう)のゆゑに。徧界不曾蔵といふは、かならずしも満界是有(まんかいぜう)といふにあらざるなり。徧界我有(へんかいがう)は外道の邪見なり」
 訳も分からず現れる、存在するものではない。何故なら、徧界不曾蔵つまりこの世界はすべてがありのままに現れているからだ。不曾蔵とは何も隠されていないということらしい。世界は、大宇宙はありのままなのだ。ありのままに見えないのは、人間が本来の面目、本来の状態でなくなっているからなのだ。歪んだ視界の中では、ありのままのものなのに、訳も分からずに偶然現れたように見える。それで、あたふた、おろおろしている。
 徧界不曾蔵とは満界是有ではないというのは、徧界不曾蔵は本来の面目、本来の状態における世界であるのに対して、満界是有は人間が頭の中で「世界は存在していると思っていること」だと私は考えている。しかし全く重なっていない訳でもないので「かならずしも」とおっしゃっているのだと思う。
 徧界我有は世界は私というものがあって存在するという考え方で、それは外道=仏教を信じない人たちの間違った見方であるとおっしゃっている。(以上は西嶋氏の提唱をもとに私が勝手に解釈したものです)
 経済の世界も、その実態はありのままに存在しているのだけれど、過去の実績だとか、経営者のプライドだとか、近視眼的な利益だとかに目が眩んで、実態を見誤って破綻したりしている。家庭だって同じこと、現実を把握できず、日々の言動の積み重ねで、時には一言、一動作で破綻する。
 「ありのまま」は、無秩序にどうでもよいということではない。本来は大宇宙の真理のもとにあるということ。しかし様々な利害、過去の経緯等々により対立し、憎悪し、血を流している。
 何とかなりませんかね。ならんだろうなあ。坐禅は広まらないだろうからね。