正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七

 岩波文庫74ページ「尽界(じんかい)はすべて客塵(かくぢん)なし、直下(ちょくか)さらに第二人あらず、直截根源人未識(ぢきせつこんげんにんみしき)、忙ゝ業識幾時休(ぼうぼうごっしききじきゅう)なるがゆゑに。」
 この世の中は、世界そのものであって、それ以外のもの(客)や塵のような余計なものはない。
 自分自身は自分自身であって、それ以外に自分はない。当たり前だけど、人間は頭の中であーでもないこーでもない、あーなりたい、こーなりたい、お金ほしい、偉くなりたいとかぐるぐる考えて、自分を見失ってしまう。第二人あらずなのに。
 さらに永嘉大師のお書きになった「証道歌(しょうどうか)」から2つの言葉を引いておられる。最初の直截云々は、頭の中であれこれ考えて自分を見失うな、根源を裁ち切ればよいのに人間はそれを知らない。頭の中でぐるぐる回っている欲望やら見栄やら(忙ゝ業識)はいつ休まる、止まるのか、ということのようだ。
 直截根源、忙ゝ業識を休めるためには、坐禅するしかない。
 政治家が賄賂貰ったとか、いつまでやってんですかね?変なことしちゃ駄目でしょ。ばれなきゃいいというのなら、人間として程度が低すぎる。単純に良くないことはしない、できない人間にならなきゃね。そんなことを言ってたら世の中回らないとか言うんだろうね。そんな世の中では困ると思うけど、坐禅は広まりそうもないし、また、上っ面の「正義」を振り回す騒ぎで終わるんでしょうな。
 アメリカもイランも、自分たちは正しいと信じているから始末が悪い。ロシアや中国やら批判の声明を出しているけど、軍事力、核兵器を持っている国が言っても、「何だかなあ」と思ってしまう。結局、自国の国益になるかならないかだけではないのか、と言ったらあまりにも悲観的過ぎますかね。