正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六

 「権力」というもののイメージは、あまりよくないみたいだ。けれど、会社で言えば、「権限」つまり決定の責任者もその部分においては権力があると言える。社長、CEO、取締役会、株主(株主総会)も権力者(機関)だ。
 自分の理想とするものを組織として実現しようとすれば、「権力」を持たなければ実行できない。裏返して言えば権力は実行しなければ意味がない。組織には、トップの反対派もいるだろうし、社外の利害関係者もいるだろう。その中で、どう権限を行使するか決めなければならない。
 「権力」なくして、世の中は回らない。権力を非難したところで、権力は不可欠であることに変わりはない。権力の行き過ぎを牽制する仕組みは必要だけど、権力自体をけしからんと言ったって、権力がなければ世の中回らないと思いますが。
 日本においては、曲がりなりにも、権力を監視するシステムは機能しているのではないかな?どこぞの国々のように、反対派はミンチにされたり、行方不明になったりはしていないものね。
 私も、権力者面(づら)した奴は嫌悪する。かつて政権交代したときに、「ざまあみろ」と正直思ったし、新政権の人達は権力批判をしていたから、昔ながらの権力者面した奴らがのさばることはなくなるのじゃないか、と私は馬鹿なので思ってしまった。けど、結局わかったのは、新政権の人達やその支持者は「他人が権力を振るうのは許せないが、自分達が権力を振るうのはよい」と思ってたんだ、ということだった。要は、「権力が欲しかった」に過ぎないと私には見えた。結局、「権力者面」はなくならなかった。
 上に書いたように、権力は不可欠なんだから、当たり前ですね。私は馬鹿なのです。坐禅していると、しみじみわかります。
 岩波文庫73、74ページ「しかあればすなはち、衆生悉有の依正(えしょう)、しかしながら業増上力(ごうぞうじょうりき)にあらず、妄縁起(もうえんぎ)にあらず、法爾(ほうに)にあらず、神通修証(じんづうしゅしょう)にあらず」
 すべての存在を取り巻く環境(依)、主体(正)は、色々なことをやってきて増えていくというものではないし、なんだか分からんけど現れた(妄縁起)でもない。法そのものかと言えばそうではない。神通力でもないし、神通力による行動でもない。
 存在は存在なのであって、言葉でつべこべ言えるものではない。言葉で表して分かったような気になってはいけない、と解釈している。
 権力についても、色々研究して、議論される必要がある。けれど、複雑怪奇だから、あらゆる観点から見ないといけないんだと思う。そんな単純な正義や悪があるもんか。
 何だか、単純に良い、悪いと二極に分けてギャーギャーうるさいだけで議論になってない、と思う。餓鬼の喧嘩はいい加減にやめたら良いのにと思う。。