正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その五

 この頃、年齢ということを考える。と言うか、考えてしまうと言う方が近いかもしれない。
 物忘れする。「そうだ、あれをやっとかねば」と思って、ちょっと別なことをすると、「何かやらなければいけない」ということは覚えているのだが、「何か」がわからない、思い出せない。苛々するし、不安にもなる。
 体は硬くなってくるし、傷も治りにくくなっている。
 頭痛は続いていて、何かしたり、特に人と関わる、話すのが苦痛、億劫だ(もともと対人恐怖気味だが)。
 さて、どうやって生きて生きますかね。坐禅していくしかないけど、先は長いですなぁ(長いかどうかわからないけど)
 岩波文庫73ページ「悉有の言(ごん)、さらに始有(しう)にあらず、本有(ほんぬ)にあらず、妙有(みょうう)等にあらず。いはんや縁有(えんう)・妄有(もうう)ならんや。心(しん)・境(きょう)、性(しょう)・相(そう)等にかゝはれず」
 すべての存在は「始有」、今始まったということではない。始まるという考え方はあてはまらない。「本有」もともと有ったというものでもない。「妙有」言葉では表現できないけれども存在するというようなものでもない。(ここのところは西嶋氏の提唱を引用してます)結局、頭の中でこねくり回して口先で、言葉でつべこべ言えるものではない、ということだと思っている。
 言葉で表現することは重要だ。しかし、体得すべきは大宇宙の真理であり、これを言葉で「こうだ」ということはできない。ただ、だから言葉で伝えようとしなくてよいのだ、ということではない。道元禅師は正法眼蔵その他をお書きになり、言葉で表現できないものを何とか伝えようと心血を注がれた。正法眼蔵の難しさはそこにあると思っている。
 「縁有」「妄有」でもない。何かから出てきた、何もないところから出てきた、というものではない。
 「心」とは「主観、主体」、「境」とは「客観、客体」、「性」は「内容、本質」、「相」は「外側の様子、外見」。すべての存在は、主観、客観、内容、外見などに分類できるものではない。ぜーんぶ引っくるめたものだ。
 これは坐禅なしに、頭で文章を理解しようとしても、絶対にできないと思う。
 坐禅しながら、この先どうしていくか、どうなっていくか、過ごしていきます。