正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その十五

 岩波文庫75ページ「往々に古老先得(ころうせんとく)、あるいは西天(さいてん)に往還(おうげん)し、あるいは人天(にんでん)を化導(けどう)する、漢唐より宋朝にいたるまで、稲麻竹葦(とうまちくい)のごとくなる、おほく風火の動著(どうじゃ)を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎(がくどうてんそ)なるによりて、いまの失誤あり」
 よくあることだが、仏教界の過去の先輩の人々が、インドに行ってきたり、人間界、天上界を教え指導したり(仏教は大宇宙の真理であるから人間界に留まらず天上界も教え導く。神の世界を崇拝する宗教とは大きく異なるということらしい)、漢の時代、唐の時代、そして宋の時代に至るまで、稲や麻や竹や葦のようにたくさん数知れずそういう人々がいたが、その人々の多くが物質の動きを頭の中の観念としてとらえて、仏性の知覚だと思っているのは、憐れなこと。仏教の理解が粗雑なので、このような間違いが起こる。
 道元禅師の時代に、今でもそうかもしれないが、過去の先輩方をここまで痛烈に批判したら、その先輩方の流れをくむ宗派の人たちは怒るだろうと思う。けれど、道元禅師は、前回も書いたが、自分が釈尊直系の仏教を体得したという自信がお有りだったということ。すごいことだと思う。私なんかを持ち出したら申し訳ないけれど、私も「おかしなものは、おかしい。間違っている」と少しは言える人間になれたとは思っている。周りからは嫌がられたりするけどね。
 「頭の中で」について、ちょっと書いておきたい。頭の中だけで考えると、とても美しいロジックになる。理想の世界が展開される。しかし、それを現実の世界に実際に展開しようとすると、息苦しい、偏狭な、せせこましい世の中になると思う。人間、そんな息苦しいのは嫌だから、頭の中で考えた人の思うようにはならない。それを無理に現実に行わせようとすると、権力による強制が起こる。頭の中の理想に従わないのは「悪」であるから、これを強権的に矯正する、排除するということになる。そういうことをやっている国、思い浮かびますよね。理想を掲げる人は残酷になる、と私は思っている。
 どこかの県だか、市だか忘れたけど、携帯ゲームの時間制限するという条例を定めるとか。条例違反だからやるな!なんて、つまらん、下らん、幼稚な話としか思えない。小さな頭で考えないで、坐禅して大宇宙を感じて、現実の世界、実在の世界をよく見てもらいたいですな。
 条例、法律で何でも縛るつもりですかね。嫌な世の中だ。いや、危ない世の中だ。どんどん幼稚になっていってると感じる。みんな坐禅して本来の面目に立ち返って、大宇宙の真理を感じてくれないですかね。無理だろうなぁ。