正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その十六

 岩波文庫75、76ページ「いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。覚知は動著にあらざるなり。たとひ動著を学習すとも、動著は恁麼(いんも)にあらざるなり。もし真箇の動著を会取(ういしゅ)することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり」
 仏道を学ぶ者は、年齢が経ってから学ぶ者、初めて学ぶ者、はそうであってはならない。仏道の覚知は物質の動きを頭の中でとらえることではない。頭の中でとらえた物質の動きというのは、(以前に書いてあったところの「(仏性は)是什麼仏恁麼来」なにものかが、なにかよくわからないが存在する、の恁麼)頭の中でとらえたような、そのようなものではない。仏性とは異なるもの。真の仏教、仏道の「動著」を体得するならば、真の仏教、仏道の覚知覚了を体得するということになる。それ以外はあり得ない。
 今、世の中には色んな情報が飛び交っている。もっともらしい理屈、理論を振り撒いている人たちもいる。色々な情報があり、色々な立場の人たちがいるのは、よいことだ。
 ただ、私には、浅薄な薄っぺらだが耳障りの良いことの方が多いと感じる。前回も書いたが、条例、法律で縛るというのと根っこは同じで、現実をよく見ず、理解せず、観念的、幼稚なものが多いと感じる。
 本当か?と疑い続けないと危ないと感じる。
 その中で、自分自身はどう生きればよいのか。考えて行動するのは自分自身。誰かに相談するのものよいだろう、教えを乞うのもよいだろう。けど、その相手は「正しいのか」それは自分自身で判断するしかない。
 毎回同じことですいませんが、それは坐禅が答えを出してくれる。