正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その十九

 岩波文庫76ページ「ある一類おもはく、仏性は草木(そうもく)の種子(しゅうじ)のごとし。法雨(ほうう)のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長(げきようしょうちょう)し、枝葉花菓(しようけか)もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解(けんげ)する凡夫(ぼんぷ)の情量(じょうりょう)なり」
 ここのところは、仏性=すべての存在であるという真実の立場から世の中一般の考え方を否定されていると思っている。
 つまり、仏性は草木の種のようなもので、ありがたい法の雨に潤されて、芽をだし、茎が成長していって、枝や葉や花や果実が茂っていく。そして果実はさらに種をその中に持っている。仏性をこのように種から成長するかのように考え理解するのは、真理を体得していない人間が考えることである、とされている。
 人間は仏性を持っており、これが成長していくのだ、ということの否定と私は思っている。
 このあとに、さらに道元禅師が解説をされているが、私は人間を含む全存在は今この瞬間に完全なものであって、このあと芽を出すとか、茎が伸びるとか将来のことを、今つべこべ言っても意味がない、と考えている。
 前回も書いたが、今この瞬間に何をするかが人間の価値だと思っている。この瞬間の行動が、原因となり結果となって現れる(因果の法則)。人間の中に何かがあってそれが現れるのを待つなんてことではない。
 学問やスポーツで毎日の研究やトレーニングによって結果が生まれる。そのように見えるけれど、今この瞬間に行ったことが全てだ。明日の結果がどうこうなんて、今の瞬間には関係ない。結果が良くないならやらないなどと、今この瞬間に判断なんて出来っこない。
 ちょっと偉そうに言うけど、「こうすりゃ上手くいく」とか「儲かる、出世する」なんて、さもしいなと思う。今この瞬間、自分でやれることをやれば、それが全てでいいじゃないか。「結果、結果」とうるさい、野暮ったい。上手くいかなかったら、そのとき、その瞬間やれることをやるしかない。
 今の世の中、成功とか世間の評価とかに振り回されて、みょうちくりんな奴が多くないですか?人間が卑しく、幼稚になっていってるように見えて仕方ない。