正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十五

 岩波文庫119ページ「「業識有(ごっしきう)」、「為他有(いたう)」なりとも、狗子無(くしむ)、仏性無(ぶっしょうむ)なり」
 過去の経験に覆われていることから「有る」と認識しようと、客観的に外側から見ると「有る」と見えようと、犬は犬として、仏性は仏性として、頭の中の概念・観念では取り扱えないものであって、無としか言いようがない。
 今は、言葉が溢れかえり、情報が乱れ飛んでいる。前回書いたうがい薬も薬局の店頭から消えたりしてるそうな。
 言葉はたくさん知っている、情報にもたくさん接している。けれど、何をするかは自分が決めるしかない。言葉や情報に振り回されていたら、休む暇がない。どこに行ってしまうかわからないと思っている。
 結局、坐禅するしかない。
 以前書いたけど、もう一度書く。坐禅して心身がバランスして、大宇宙の真理を感得(澤木興道氏の「宇宙とぶっ続きになる」「宇宙と波長を合わせる」)したとき、智恵が発揮される。智恵は直感、直観。人間常に生死の境目にいると思っている。瞬間瞬間判断しなきゃ死んでしまう(肉体的な死だけではなく)。だから、直感、直観すなわち智恵に頼るしかない。