正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十

 岩波文庫76、77ページ「たとひかくのごとく見解(けんげ)すとも種子および花菓、ともに条々の赤心(せきしん、しゃくしん)なりと参究(さんきゅう)すべし。果裏(かり)に種子あり、種子みえざれども根茎(こんきょう)を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲(しじょうだいい)となれる、内外(ないげ)の論にあらず、古今の時に不空(ふくう)なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉(こんきょうしよう)みな同生(どうしょう)し同死し、同悉有なる仏性なるべし」
 「たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに条々の赤心なりと参究すべし」
 仏性が植物が種から成長するように成長するものだと考えたとしても、種、花、果実それぞれが、瞬間瞬間の一つ一つの事実、その瞬間を一生懸命生きている「心」であると学ばなければならない。
 同じことの繰り返しになるが、今この瞬間以外に生きる以外には何もない。瞬間の積み重ねがあるだけ。
 「果裏(かり)に種子あり、種子みえざれども根茎(こんきょう)を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲(しじょうだいい)となれる、内外(ないげ)の論にあらず、古今の時に不空(ふくう)なり」
 果実の中に種があり、種としか見えないけれど根や茎が生まれてくる。材料を集めてくるわけではないけれど、大樹となる。このようなことだから、内側にあるとか、外側から持ってくるというような話ではない。いつのときも、この世界に実際に存在している(不空)のだ。
 一人の人間は、それぞれが絶対の存在であって、内側に何かあるとか、外側から何かを付け加えるとかいうものではない。種は種として絶対の存在であり、内側とか外側というように分別するものではない。
 学問でも職業でも、事実を集め、分析するのは当然だ。しかし、現実にどうするか、この瞬間どうするかというときは、全てが統合されなければいけない。
 「しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉(こんきょうしよう)みな同生(どうしょう)し同死し、同悉有なる仏性なるべし」
 そういうことなので、凡夫の考えは考えとしてあるとしても(種から茎、枝、葉が育つ)、根も茎も枝も葉も同時に生まれ同時に死ぬ、全く同じ存在であるところの仏性である。
 私は、今回のところで道元禅師がおっしゃっていることは、頭の中で理屈や概念にとらわれないこと、現実の世界は瞬間の絶対的な存在だということだと考えている。
 道元禅師は、仏性を「頭の中の概念ではない」とお説きになっていると思っている。