正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十四

 岩波文庫78ページ「時節因縁聻(じせついんねんにい)なり、超越因縁(ちょうおついんねん)なり、脱体仏性(とったいぶっしょう)なり。仏々聻(ぶつぶつにい)なり、性々聻(しょうしょうにい)なり」
 水野氏の脚注によると「聻(にい)」とは「それだけ」という意味だそうだ。西嶋氏は「そのもの」とされている。
 今のこの瞬間の事実そのもの、それ以外には何もない。だから「因縁」という抽象的な言葉、概念を超越した現実であり、「仏性」という抽象的な言葉、概念を脱け出したものだ。仏という事実、実体そのもの、それしかない。性(西嶋氏によれば「本質」)という本当の姿、事実があるだけだ。
 現実を、事実をきちんと受け止める、理解するというのは、私は坐禅しない限り、本当のところ、真には不可能だと思っている。
 このブログの最初の方に書いたが、私が携わった仕事で七転八倒したのも、現実、事実が見えていなかったということ。
 今、コロナウイルスで大騒ぎとなっているが、事実として何がどうなっているのかを、きちんと理解せず、右往左往すれば自身も危ないし、社会もさらに混乱するだろう。
 「お前はどうなんだ」と言われれば、マスクして手洗いして、もし発病の兆候があれば行政の指示に従って受診する。他の人には感染させはいよう努力する。治療薬は現時点では無いそうだから、自分の免疫力が勝つか負けるか。「生も一時の位なり。死も一時の位なり」
 個人としては、上に書いたとおりだが、国レベルでは大変だろう。常に様々なリスクを想定して、人や物資や財源を確保していなければならないし、訓練も必要だろう。
 そして、そのためには、国力がなければならない。日本は資源がないのだから、外貨を獲得しなければならない。
 国力、国益を度外視した観念論ではすまない。国益偏重も駄目だけどね。
 この複雑な現実を坐禅により受け止め、乗り越えて行くしかないのだ、と私は思っているのだけれど。