正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十三

 岩波文庫78ページ「「当観」といふは、能観、所観にかゝはれず、正観、邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり。当観なるがゆゑに不自観なり、不他観なり」
 「当観時節因縁」の「当観」についての解説。能観とは主体として観る、所観とは客体として観られる。このように主体、客体と分けて考えるということではない。また、正しいとか間違っているとか頭の中で評価するようなことでもない。まさに日常生活の中で実際に観るということ。日常生活の瞬間瞬間のことであるから、自分を観ているとか他人を観ているとか言っている暇はない。
 日常生活、現実の瞬間瞬間を一生懸命生きる。毎回同じことを書いているけど、これに尽きる。おこがましいが、正法眼蔵も同じことを様々な角度から、様々な観点から書かれていると思っている。澤木興道氏も「正法眼蔵坐禅の中身が書かれている」と言っておられたと読んだ気がする。
 ちょっと横道にそれるが、オリンピックって不思議だなぁと思っている。スポーツをやっている人がより高度なことができるようになりたい、というのは当たり前だと思う。世界にはどんな選手がいて、競ってみたいとも思うだろう。
 だけど、国をあげて大騒ぎするようなことですかね。ドーピングしたり、厚底の靴がどうだとか用具でけんけんがくがくしたり、私には異常な世界にしか見えない。まあ、オリンピックやると建設業やらスポーツ用品メーカーやら食品メーカーやらマスメディアやら莫大な利権が発生するから、やめられないのかな。
 選手は一生懸命やってるのだろうけど、国やらスポンサーの相当な援助なしには、基本的に成り立たないなんて、どうも腑に落ちない。
 正直なところ、私は、全く興味はない。
 「夢」とかいうけど、毎日の生活をきちんと生きることが全てで、それ以外に何があるのだろうか?スポーツは自己に没入する側面があるから坐禅との共通点が無いわけではない(そのように西嶋氏も書いておられる)。
 けど、それが日常生活で一生涯続かなければ、意味がない。一生涯、普通の日常、誰に知られることもないが、きちんと大宇宙の真理に従って生きること以上の価値があるものはないと信じている。