正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十二

 岩波文庫128ページ「このとき、思量して学道す、不思量して学道す」
 学道するとき、色々考えながら学ぶときもあれば、考えることをせずに学ぶこともある。
 私は、「思量して学道」=正法眼蔵を読むこと、「不思量して学道」=坐禅だと思っている。ただ、不思量というのは、日常生活の瞬間瞬間を無我夢中で行動しているときも含まれるのかな、とも思う。
 道元禅師は、経典などを読んで考えることも大事だとされている。ただ、坐禅無しに経典を読んでも意味がないとおっしゃっているのだと思う。
 現実の組織でも理論と実践が揃わなきゃ役に立たない。
 ただ最近は「言葉だけ」の人が多くないですかね。じゃどうするんだ?というごとに対しての答えが、観念的・抽象的で現実離れしてしまっている。「現実をよく見ろ」と言いたくなることがよくある。
 私も学者を何人か知っているけど、言うことは立派だけど、人間としてはいかがなものか?と思う人がいる。人間としての行動がお粗末なのでは話しにならない。こういう人に限って、反対意見を言う人に常軌を逸しっているようなことを言って攻撃する。とても恐い。
 私は道元禅師は、ごく当たり前のことをおっしゃっていると思っている。そうでなければ、人々を救えない。超人的な神秘的なことが必要なんじゃ人々を救えない。
 坐禅しましょう。