正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十ニ

 岩波文庫77、78ページ「かの説、行、証、亡(もう)、錯(さく)、不錯(ふさく)等も、しかしながら時節の因縁なり。時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり。払子(ほっす)、挂杖(しゅじょう)等をもて観ずるなり。さらに有漏智、無漏智、本覚、始覚、無覚、正覚等の智をもちゐるには観ぜざられざるなり」
 説く、行う、体験する、亡くす、間違う、間違わないとか、いずれも現在のこの瞬間での事実(時節の因縁)である。(「しかしながら」は水野氏の脚注では、「すべて全く」とのこと) 現在のこの瞬間の事実を観るためには、現在の瞬間の事実をもってつかむしかない。頭の中の観念ではない。払子、挂杖等は僧侶が日常で使うもの。つまり日常の生活の中でつかまなければならない。
 仏教では智について有漏智とか様々な智に分類しているが、そのような抽象的な理屈ではとらえらることはできない、理解することはできない。
 私は、仏教の細々とした専門用語は知らない。知って悪いことはないだろうが、仏教用語の辞典やWikipediaなど読んでも、ちんぷんかんぷんで全くわからない。これらの用語をたくさん細かく知っていることと、きちんと生きることが結び付かない。世の中難しいことを知っていたり、話したりすると尊敬されたりするけど、知識があっても行動が駄目なら、話にならない。それに本当に優秀な人なら重要なことを平易な言葉で端的に話せるはず。私は難しい言葉を好んで使う人間は、本当のところは分かっていないのを誤魔化しているのだろうと思っている。
 結局のところは、この世界で何故生きているのかということなのだろう。澤木興道氏は「食うために生きるのじゃない。生きるために食うのだ」と言っておられたと思う。そして「何のために生きるのか」とも言っておられたと思う。私は大宇宙の真理に従って瞬間瞬間を生きて行きたい。とは言っても毎日七転八倒してますけどね。それでも坐禅のおかげで、おかしなことはしなくなってきていると思っている。
 世界の紛争、異常な犯罪、それぞれ取り敢えずは個別に対処せざるを得ないけれど、最終的には仏教、坐禅に行き着くしかないと考えている。取り敢えずの対処も、観念論ではないことを祈るしかない。この日常に即した、現実に即したものであってほしい。そして、一人一人がどう生きていくかで、社会はどうなるか決まると思っている。