正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十七

 岩波文庫114ページ「「莫便是長老見処麼(もべんしちょうろうけんじょま)」といふは、「これを見処とはいふまじや」といふがごとし。」
 莫便是長老見処麼、便ち(すなわち)是れ長老の見処なることなきや。これ(十二時中不依倚一物)とは長老(仏道に優れた人)の見るところ(考え、意見)ではないのだろうな、と言っているのは、十二時中不依倚一物と考えていると言うのではあるまいな、と言っていることと同じである。
 正直、ここのところは難しいなと思う。(上の解釈もいいのか悪いのか分からない)
 私なりの考え(これまでも私なりの考えに過ぎないものを書いてきているのだけれど)では、「十二時中不依倚一物」は真実であるけれど、抽象的概念・文言としてはいけない、ということではないか、と思う。
 真実(大宇宙の真理)に則って瞬間瞬間行動していくことが最も重要(というか全てではないか)。その中で、十二時中不依倚一物は大事であるけれど、言葉として知っているだけでは何の意味もない。当たり前だが、言葉が重要なのではなく、何をするかが重要。
 世の中には立派なことを言っているけど、やっていることを見ると首を傾げざるを得ない人がたくさんいるなぁと思う。何か、口先だけ達者な人増えてませんかね?
 また、十二時中不依倚一物という一つの言葉にとらわれ、考えや行動が固定化してもだめたと思う。
 知識はたくさんあるけど、どう行動していいかわからないじゃしょうがないし、知識にとらわれ現実が見えないのもだめだ。
 澤木興道氏が言っておられるように「宇宙とぶっ続き」になって、自由自在でなきゃいけないと思っている。
 そのためには坐禅するしかない。