正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十六

 岩波文庫114ページ「たとひ此土(しど)なりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり。すでに十二時中なり、不依倚なるべし」
 仮にこの世界にいるとしても、あるいは別の世界にいるとしても、みな、自分の外側の基準に寄りかかって、依存している存在ではない(自分の内側の基準=大宇宙の真理に依っているのである)。今この瞬間に直面しているのだ、言うまでもなく不依倚でなければならない。
 どこでも、いつでも十二時中不依倚一物でなければならない。と言うより、そもそも自分の基準によって生きるしかない。けど、評価されたい、偉くなりたい、お金欲しいとかに振り回されて、おかしくなっちゃう。
 自分の基準によって生きて、自分勝手にならないためには、坐禅するしかない。
 また、何でもかんでも今すぐ自分の基準によって行動しなければならない、ということではないと思っている。自分の内側の基準=正しさを実現するためには、今は状況の変化を待つということもあるだろうし、周囲からボロクソに言われようと行動するときもあるだろう。どうすれば良いかは坐禅が教えてくれる。
 どうも最近、疑問符だらけだ。何とかならないもんかなぁ。さて、どうしますかね。坐禅しながら生きていきます。