正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十五

 岩波文庫114ページ「いまいふ十二時は、人間(にんげん、じんかん)の十二時なるべきか、他那裏(たなり)に十二時のあるか、白銀世界(びゃくごんせかい)の十二時のしばらくきたれるか」
 今、取り上げている十二時は、人間にとっての、人間の世界の十二時とするのがよいのか、あるいはそれ以外の世界の十二時というものがあるのか、素晴らしく尊い世界の十二時のことなのであろうか。
 「人間」だけど、水野氏は「にんげん」とルビをふっている。西嶋氏は「じんかん」と読んでおられる。じんかんと読むと「人間の世界」ということらしい。
 ここでは、人間にとっての十二時と読んでも、人間の世界の十二時と読んでも、私個人としては意味が通じると思う。
 「白銀世界」について水野氏の脚注に、首山省念禅師の「白銀世界金色身、情与非情共一真」とある。私には正確にはわからないが、金色身とは釈尊のことを意味しているのではないかと思う。そうすると、白銀世界は釈尊と同じく尊い世界で、そこでは精神作用のあるものもそうでないものも全てが真実だ、となるのではないかと思う。首山禅師は黄檗禅師の系列の方らしい。
 ちょっと能書が長くなってしまった。私は、今この瞬間を生きているときには、人間の世界だとか、それ以外の世界だとか、白銀世界というような清らかな尊い世界だとか、そんな区別は関係ない、ということだと思っている。○○世界なんてのは頭の中の抽象的な概念であって、現実に生きている瞬間では抽象的概念など相手にしている暇はない。
 コロナにしても、あーだこーだ言葉沢山(ことばだくさん)に言っている人たちがいる。緊急事態宣言して自粛要請、休業要請すれば、職を失う、店が潰れると大騒ぎ。宣言解除すれば第ニ波だと大騒ぎ。治療薬もワクチンもないのだから、コロナのリスクはある程度許容して経済を回すしかないんじゃないですかねえ。
 財源、公務員、医療関係者などみんな有限なのだから、打てる手は限られているんじゃないのかな。
 個人としては、感染拡大しない行動を取るしかない。
 行政の対応が変化すると、それ見たことかと騒ぐ人がいるけど、状況が変わっても対応を変えない方が不味いんじゃないのかな。もちろん、決断を下した人には責任はあるだろう。
 ただ、思うのは、行政にしてもなんにしても絶対的に頼れるもんなんてないのだから、自分自身が瞬間瞬間生きて行くしかない。坐禅していれば生きていける。