正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その一

 心不可得(しんふかとく)の巻に入る。

 岩波文庫190ページ「釈迦牟尼仏言(のたまわく)、「過去心不可得(かこしんふかとく)、現在心不可得(げんざいしんふかとく)、未来心不可得(みらいしんふかとく)」。これ仏祖の参究なり。不可得裏に過去現在未来の窟籠(くつろう)を剜来(えんらい)せり。しかれども、自家の窟籠をもちゐきたれり。いはゆる自家といふは、心不可得なり。而今(しきん)の思量分別は、心不可得なり。使得(すて)十二時の渾身(うんしん)、これ心不可得なり。仏祖の入室(にっしつ)よりこのかた、心不可得を会取(ういしゅ)す。いまだ仏祖の入室あらざれば、心不可得の問取なし、道著(どうじゃ)なし、見聞(けんもん)せざるなり。経師論師(きょうじろんじ)のやから、声聞縁覚(しょうもんえんがく)のたぐひ、夢也未見在(むやみけんざい)なり。

 釈尊がおっしゃった「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」「心」は過去においても現在においても未来においても得ることはできない。これが仏祖として究められたものである。「心」は「不可得」という真理は永遠のものであるがそれを岩穴や籠で過去・現在・未来とえぐり取って示しているのである。けれどもこの岩穴や籠はまさに自分自身のものなのである。自分自身が生きているというのは現実そのもの今この瞬間の事実であるから「心不可得」であり、これがそうだと掴めるものではない。今この時色々考えを巡らせているがこれが今この瞬間を生きているということであり「心不可得」、こういうものだとつかみ取ることはできない。全身を使って一日二十四時間を生きているが、これが生きているということですと掴めるものではない、「心不可得」である。仏祖に従って仏道を学ぶつまり坐禅をすることによって「心不可得」を会得することができる。仏道を学ぼうとしなければ「心不可得」を問うことも言うことも見たり聞いたりすることもない。経典を読んで議論しているような人間や経典などを見たり聞いたり、あるいは周囲の環境から学んだりする人間などは夢にも未だ見たことが無いのである。

 「心」とは大宇宙の真理、大宇宙の真理と一体となって行動しているこの瞬間のことだと思っている。この「心」は「こういうものです」と捉えることはできない。捉えることはできないが、絶対的に存在する。

 「心」とは何かを頭の中でこねくり回して妄想することに意味はない。坐禅して大宇宙の真理と一体となれば、この心身が大宇宙そのもの、真理そのものになるのだ。

 何回も書いているけれど、大宇宙の真理とはこういうものだと言葉では言い表せない。坐禅するしか体得することはできない。しかしそれでは仏道、仏教を広めることができない。だから仏祖と言われる人々、道元禅師は「心不可得」とは何かを様々な方法で苦心惨憺して伝えようとされている。

 言葉では言い表せないが絶対的に存在する大宇宙の真理と一体となる以外に人間が

生きる意味があるだろうか。

 総選挙で騒いでいる。この選挙区は誰なら勝てる、一本化するのだ、比例全国区に出る、とかとか騒いでますなあ。新党を立ち上げて立候補者を立てると言ったけど時間が無いので間に合いませんなんてコントみたいなこともやってる。

 どれもこれも小手先のおままごとみたいだ。主義主張を堂々と掲げてその主張が共感されれば自ずと当選するんじゃなかろうか?そういう中身が無いから小手先でこちょこちょやって票を増やそうとしている。実に情けない。

 日本も世界も人間が生きるとは何かを見失って、それぞれの妄想であーでもないこーでもないと揉めている。テロで殺し合いをし、武力で威嚇したりしている。

 いつまでこんな低レベルのことをしているんだろう?

 坐禅するしかない。