正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 心不可得その二

 岩波文庫191ページ「その験(げん)ちかきにあり、いはゆる徳山宣鑑(とくざんせんがん)禅師、そのかみ金剛般若経をあきらめたりと自称す、あるいは周金剛王と自称す。ことに青龍疏(しょうりゅうしょ)をよくせりと称ず。さらに十二担の書籍(しょじゃく)を撰集(せんじゅう)せり、斉肩の講者(こうじゃ)なきがごとし。しかあれども、文字法師の末流なり。」

 そのことが明らかになる出来事は身近にある。徳山宣鑑禅師はかつて、金剛般若経をはっきりと理解できていると自称し、(もとの姓が周だったので)周金剛王とも自称していた。

ことに(釈道氤(しゃくどういん)が玄宗皇帝のために編んだ金剛般若経の注釈書である)青龍疏をことによくわかっていると称していた。さらに十二人の人が担ぐ分量の書籍を書いたり集めたりしていて、肩を並べる者がいない学者のようであった。ではあるけれど文字ばかりを読んでいて現実の修行をしない法師の末流であった。

 いくら経典を読んで頭の中で「わかったわかった」と思っていても何の役にも立たない。今この瞬間の現実においてどのように行動するかに結び付いていないのなら何の意味もない。

 坐禅をして大宇宙の真理と一体となった身心ならば、今この瞬間の行動に自ずから金剛般若経を活かすことができる。意識せずともそうなる。

 重要なことは現実のこの瞬間に正しいことができるかどうかだ。

 選挙の告示日ということで、党首たちが一列になって拳を握ってポーズをとっている写真を見た。今はイメージ先行の世の中だから、ポーズをとったりするのも大事なんだろうが、結局のところは現実にどういうことができるかだけが問題だ。

 言ってる言葉は立派で威勢がいいが、いったいどうやって実現するんだろう?と首を傾げることを言ってることが多いと感じる。頭の中だけなら何とでも言える。「文字法師の末流」じゃなければいいんだけど、どうも「文字法師の末流」の匂いが濃厚だ。

 現実離れをした、目先の思い付きみたいなことばかり言われても困る。

 人間が生きるとはどういうことかを土台に50年後100年後を見据え、今の現実を見据えた行動ができなければいけない。

 そのためには坐禅が必要だ。坐禅しましょう。