正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十四

 岩波文庫ページ「この十ニ時中、いづれ時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん」
 この十二時中(1日中、常に)の「時」というのは、どのような時が来ているというのか、どこの国土のことをいうのか。
 今の瞬間瞬間を生きるのだから、「今はどういう時節でしょうか?」などと言っている暇はない。「ここはどこですか?」などと言っている暇はない。
 今このとき、今いるところで瞬間瞬間行動するしかない。
 「時代が悪い」「国が悪い」と言っても、そういう時代であり、そういう国であることは変わらない。諦念ではない。「だから仕方ない」と受け入れるしかないということではない。現実・事実としてきちんと把握しなければ、何も始まらない。
 また、時代や国のせいばかりにしていても何も始まらない。
 今の時代や国(あるいは地球上の人類の状況)が、間違っているのかどうか。それは、自分の内側の基準、坐禅によって体得した(感じた)基準によって、つかむことができる(直感的=智恵)。そして、どう行動すればよいかもわかる。行動というと華々しいことをイメージするかもしれないが、そうではなく、日常生活をきちんと生きるということ。日々の生活がちゃんとしてない者に何ができるというんだろう?
 現実を踏まえない主義・思想は、とても危険だと思っている。歴史を見ても、それは証明されているのではないかな。現実を踏まえない主義・思想を無理矢理押し通そうとすると、人間は物凄く残酷なことを平気でする。下手すると、残酷であることが称賛されたりする。
 本来の面目を失って、大宇宙の真理から逸脱して暴走する。坐禅して、本来の面目に戻らなきゃ駄目だ。
 都知事選をやってるみたいだけど、揚げ足取り、現実離れしたことばかり言ってるように見える(よく勉強してないので違うのかな?)。
 坐禅しながら生きていきます。