正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十四

 岩波文庫120ページ「この僧の道得(どうて)は、今有(こんう)なるか、古有(こう)なるか、既有なるかと問取するに、既有は緒有に相似せりといふとも、既有は孤明なり」
 この僧の言っていることは、今という時間に存在しているのか、昔からという時間の中に存在しているのか、現在現実に存在しているのかと問いているのだが、既有(現在現実に存在している)は、その他の「有」に似ているように思えるかもしれないが、既有は唯一無二であり明白なものである。
 「今」「古」は時間軸の概念で、「既」は現在の瞬間のことだと思う。私たちは現在の瞬間を生きるしかない。現在の瞬間をどう生きるかで、過去を活かすことになるし、将来がどうなるかも決まる。
 現在何をするかにおいて、過去を勉強し、将来の可能性を考えるのは当たり前だ。
 だけど、今この瞬間の行動がなければ何にもならない。今この瞬間が全てだ。「既有は孤明」なのだ。
 今この瞬間の行動が間違っていたら、過去の経験は死に、将来は暗いものになる。
 何だかコロナによって新しい生活様式、新しい働き方が生まれるそうな。そうなのかもしれない。けど、生活様式も働き方も時代時代で変わってき続けてきたんじゃなかろうか?今更、そんなに大袈裟に声高に言うことなんですかね?
 私は坐禅しながら、今この瞬間を生きていきます。