正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十五

 岩波文庫121ページ「しるべし、この故犯すなはち脱体(とったい)の行履(あんり)を覆蔵(ふぞう)せるならん」
 知っておかなければならないのは、このように敢えて言葉で言い表そうとすることは、言葉とか理屈を全て脱け出して、ただひたすら行動しているということを含んでいるのだ。
 ちょっと意味が違うかもしれないが、言動一致というようなことに近いのだろうか。
 無我夢中で行動しているときには、精神状態がどうだとか身体がどうだなんてことからは脱け出している。無我夢中なんだから。
 よく「無心になれ」なんてことを言うけど、「無心」「無心」なんて唱えて、無心になろうとするのは、「無心に囚われ」ていて、邪心そのものじゃないかと思う。
 一生懸命、無我夢中で行動しているとき(その行動の中には、必死に訴えていることも含まれると思うけど)、その時は「脱体」「心身脱落」になっていると思う。
 そのような真実を敢えて言葉で言い表せば、それは無我夢中の行動を覆いかぶしている、含んでいると言っているのだと思う。
 言葉とか見てくれは立派だけど、「一体この人は何をやってるんだか」という人多いように思う。
 仕事で疲れてくたくたになって帰ってきたとき、郵便受けに政治家のチラシが一杯入っていることがある。何だか、格好つけた写真ともっともらしいことが書いてある。まあ、どうでもいいけど、現実にちゃんとした行動とってね。