正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十六

 岩波文庫121ページ「これ撞入と説著(せつじゃ)するなり。脱体(とったい)の行履(あんり)、その正当覆蔵(しょうとうふぞう)のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す」
 (頭の中で考えた理屈ではなく、現実に犬が行動していることから)これを犬の皮袋に仏性が入ったと説明したのだ。現実に頭の中での理屈を離れて瞬間瞬間行動している、その現実全体に覆われているときは、自分も、他人も全て含まれて覆われているのだ。
 結局のところ、どんなに理屈をこね回しても、行動が全てだ。私も過去の、また現在の行動の結果を受けて反省したり、割り切ってみたり、色々です。坐禅してるからといって、聖人君子になるわけじゃないし、そんなものになりたいとも思わない。ただ、現実を現実として受け入れられるのは間違いない。そして、大宇宙の真理から外れてはいないと思っている。
 総理大臣が辞任を表明した記者会見で、記者の中で「お疲れ様でした」と言ったのは1人だけだったとか。まあ、記者は「正義」を伝える仕事なんだから、余計なことを言う必要はないということなのかな?でも人間としてみたときには、いかがなものかとは感じる。そういう人たちの扱う「正義」を信じていいのかな?メディアを本当に信じている人は多くないのかもしれないから、いいのかもとも感じる。
 行動が全て。法律に違反していようが、いまいが、大宇宙の真理は、行動に対して現れる。法律は人間が社会を維持するための枠として作ったもの。法律に関して争うのは、現実には仕方ないけれど、法律以前に大宇宙の真理に沿って行動できないもんですかねえ。坐禅しましょう。