正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十七

 岩波文庫121ページ「しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢(ろぜんばごかん)」
 生きているというのは、大宇宙の真理に覆い被されている。それが脱体ということなのだが、そうであるのに「まだ「解脱」できていない」といってはいけない。驢馬の前や後ろをうろうろしている人よ。
 よく「解脱」なんてことをいう。厳しい修行の末に「解脱」したとか。普通に一生懸命瞬間瞬間生きていることが、敢えて言うなら「解脱」なんだと思っている。はたから見れば、驢馬の周りをうろうろしているように見えたとしても。
 もちろん、坐禅していることが前提だけど。 
 生きているって、そんなに格好のいいもんじゃないと思う。年取ってくると、その感じが強くなってくる。自分も、だめだなぁ、としょっちゅう思っている。でも、だめだと思えるんだから、いいんだと考えている。だから、少しはましになろうと行動する。
 格好、見栄、利得それに囚われると、どんどん大宇宙の真理から遠ざかってしまう。
 表面面(づら)格好良くても、裏でろくなことしてない奴ら一杯いる。「現実はそういもんだ」「正義の実現のためにはこれくらいやらなきゃ」などと思ってるんだろうなぁ。
 でも、最後の最後は大宇宙の真理が答えを出す。
 坐禅して、驢馬の周りをうろうろしていると言われても、瞬間瞬間一生懸命行動しようと思います。