正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四

 岩波文庫102ページ「かなしむべし、大宋一国の在家出家、いづれの一箇も、龍樹のことばをきかずしらず、提婆の道(どう)を通ぜずみざること。いはんや身現に親切ならんや。円月(えんがつ)にくらし、満月(まんがつ)に虧闕(きけつ)せり。これ稽古(けいこ)のおろそかなるなり、慕古(ぼこ)いたらざるなり。古仏新仏、さらに真箇の身現にあうて、画餅を賞翫(しょうかん)することなかれ」
 悲しいことだが、偉大な宋の国すべての在家の信者、出家した者、誰一人として、龍樹尊者の言葉を(本当の意味で)聞いていないし知っていない。提婆尊者のおっしゃったことを理解していない、見えていない。そのようなことだから、どうして現実に姿を現すということを我がこととして理解していようか。円月がなにかわかっていないし、満月とはどういうことか理解に欠けている。このようなことになるのは、過去の祖師の方々のことを考えることが疎かであるためであり、過去の祖師の方々のことを慕うことが十分ではないからである。仏道に入ったのが古い人も新しい人も、一層坐禅することによって真にこの現実の中で姿、身体を現すとは何かを体得し、絵に描いた餅を素晴らしいなどと有難がるようなことをしてはいけない。
 真の価値はなにかとは関係なく、色んなことを色んな人が言うし、訳の分からないものを有難がったりしている。まさに、絵に描いた餅を有難がっていないですかね。真の価値と関係ないから、これまで誉めそやかしてていたのに状況が変わると手の平を返して、叩きまくる。坐禅して心身のバランスをとれば事実が見えてくると思っている。もちろん得られる情報は限られているし、私の知識もわずかなものだ。でも、少なくとも「なんかおかしい。ちょっと様子見よう」とか「今の風潮に乗らない方が良さそうだ」ということは感じられる。
 国にしても、自治体にしても、マスコミにしても発信している情報が正しいとは必ずしも信じてはいない。そう言っている人、組織があるというだけのこと。それらを参考にはするが、結局自分で判断するしかない。その判断は坐禅していれば間違わないと信じている。
 法律で規制されれば従うけれど、法律自体だって本当に正しいのか、ということだってある。学問だって、新発見でこれまでのことが覆るのは歴史的にも珍しくないだろう。
 大宇宙の真理は絶対的に存在する。それに従って、瞬間瞬間行動していくだけしかできない。
 コロナを巡ってアメリカと中国が喧嘩しているけど、アメリカにはアメリカの事情があり、中国には中国の事情がある。内政の問題もあるだろうし、国際的な勢力争いもあるんだろう。結局のところ、経済力、軍事力での勢力争いにも見える。
 それが今の地球の現実なのだと思っている。この現実は現実として、いかに大宇宙の真理に従って生きていくか。現実の中で次善の策をとらざるを得ないことも多いとは思うが、断じて譲れないということもあるだろう。どうするかは坐禅が教えてくれる。