正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十一

 岩波文庫121ページ「いはんや欲識庵中不死人、豈離只今這皮袋(庵中不死の人を識(し)らんと欲(おも)はば、豈只今(あにいま)のこの皮袋を離れんや)なり」
 庵(いおり)を建てて仏道修行をしている人を知ろうと思うのなら、今現実の身体(皮袋)を離れて考えることはあり得ない。
 不死の人は、不老不死のような超人のことではなく、単に「生きている人」ということだと思う。
 生きて行動するのは、現実のこの身体。理想を掲げるのもいい、夢を描くのもいい。しかし、その理想も夢も、今この現実の上に造っていくしかない。この前も書いたけど、言うことは綺麗で立派だけど、どうするのか具体的にさっぱりわからないとか、現実の認識がおかしいんじゃないか、と思う人はけっこうたくさんいると感じる。
 それと、事実を事実として正確につかむのは、本当に難しいと思う。世の中見ても立場により、いろんな風に解釈している。それで、あいつが悪い、間違っていると血相変えて喧嘩してる。
 もう少し落ち着いて、地道な行動を取れないもんですかね。
 何だか自己顕示欲が強い人が評価されすぎなんじゃないか。
 目立つことはないけど、毎日せっせとやるべきことをきちんとやっている人を大事にしないといけないですよね。そういう人たちで世の中もっているんだから。