正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十

 岩波文庫121ページ「いま一字の入(にゅう)あきらめがたしといへども、入之一字(にゅうのいちじ)も不用得(ふようて)なり」 
 僧の問いの「入這皮袋」の「入」の一字も、はっきりこうだと言うのは難しいのだけれども、入という一字も必要ないのだ。
 犬は犬として現実に存在しているのだから、仏性が犬の皮袋に入り込むとか、入り込まないなどと観念的な議論をしても意味はない。
 議論は議論としてするべきだけど、現実を踏まえない議論は意味はない。
 コロナについて、未知のウイルスであるとしても、現実としてしっかり把握しなければならないものは何で、そのためには何をしなければならないのか、私には、今一つわからない。なんだか、偉そうなごたくを吐いていらっしゃる方もお見受けするけれど、「だからどうした」と思うことが多い。
 一つだった政党が分裂して、また一緒になるらしい(全部じゃないらしいけど)。
 選挙に勝てるかどうか、お金がどうだこうだ、色々あるんだろう。
 だけど、そもそも、現実の処理能力が有るのか無いのかが重要で、「取り敢えず選挙に勝たねば」では、何だか心許ない。
 つべこべ言わんでいいので、現実に立脚して現実を処理してくださいな。格好いい、耳障りのいい言葉は、聞き飽きたというのが、私の本音であります。