正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十二

 岩波文庫107ページ「「一切衆生即仏性」といはず、「一切衆生、有仏性」といふと参学すべし。有仏性の有(うぶっしょうのう)、まさに脱落(とつらく)すべし。脱落は一条鉄(いちじょうてつ)なり、一条鉄は鳥道(ちょうどう)なり」
 「一切衆生がそのまま仏性である(岩波文庫水野氏脚注)」とは言わずに「一切衆生は有であり仏性である(同脚注)」と言っていると理解すべきである。有であり仏性であるということなのだから、「有」はいらない(脱落すべし)。「有」を脱落させてしまえば、仏性だけであり、それは純粋な一つの鉄の塊のようなものであり、それは鳥が飛んで行くところのように跡を残さず、無限なものである。
 私は、有るとか無いとか、頭の中でごちゃごちゃ考える必要はなく、一切衆生=仏性ということなのだと思っている。
 本来仏性であるのに、それを見失ってしまっている。これをどうするかと言えば、「坐禅しかない」としか私には言えない。そんなこと言ったって誰もやらないし、現実の問題は解決しないと怒られてしまうだろう。だけど、究極的にはそれしかない。
 「教育」と言っても、誰が内容を作るんですかね?まあ、いろんな立場・主義主張の人たちが出てきて、ぐちゃぐちゃになるだろうと思う。これはこれで「やれやれ」と思うけど、どこぞの国々のように国の方針に従わなければ、拘束、迫害、下手すりゃ殺されちゃうより、はるかに断然良い。
 科学は発達する。AIとか凄いもんだと思う。ただ人間のレベルは低いままと感じる。科学は発達しても人類は進歩しない。人類には滅亡する自由もあるのだから、仕方ないとも思う。坐禅してくれませんかね。
 テレワークとか急に騒いでいるけれど、目的を達するのに最善の方法を追求するのは、当たり前のことで、コロナで仕方なく、というのでは、ちょっと残念な気もする。
 余計な話だけど、AIと人間が将棋したらAIが勝つというのが当たり前ではないのかな?人間という不安定な、様々な人生を背負った者同士が、体調やら感情やらが絡まるなかで戦うのが面白いのだと思うけど。余計な話で失礼しました。